発達障害(ASD+ADHD)と
診断されているネスケです
妻のネスケ子です
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ネスケとの生活の中で、頻繁に頭に浮かぶ言葉があります。
ネスケがわたしに対して意見のような文句を言う時
ねえ?
ブーメラン刺さっているよ?
最近は、ネスケ父の話(だいたい「ありえないよな。」ということ)を、ネスケがわたしに話していると
これ以上は俺にブーメランが刺さるから、この辺でやめておく…。
『自分のことを客観視できない』という特性が、自分のことを棚にあげて言うブーメラン旦那に繋がります。
自分のことを客観視できないという特性は、「俺ばっかり」という発言にも繋がっていきます。
今回は『自分のことを客観視できない』
という特性からの困りごとについて詳しく書いていきます。
『自分のことを客観視できない』のは「想像力の欠如」
ネスケに発言に対して『自分のことを棚にあげて』と、わたしが思うことの多くは『自分のことを客観視できない』という特性から来ています。
ASD(自閉スペクトラム症)の方に多いのではないでしょうか。
この特性からの困りごともあります。
誰でも『自分の事をすべてにおいて、客観視することが出来る人は出来ない。』と、わたし思います。
ですがさらに、『自分の事を客観視する事が苦手』というのが発達障害の特性を持っている方。
多くの方は、ある程度自分の言動に対して相手がどう思うかということを考えて行動したり、言葉を発したりします。
発達障害の特性を持つ方は『自分の言動によって相手がどう思うか?』ということを想像する事が苦手とされています。
自分のことを客観視できないというのは、『社会的想像力の障害』という特性が大きく関係しているのかな?と、わたしは感じています。
自分が不快な思いをしたということを、自分も相手にしているということに気づかない。
これは夫婦喧嘩や、日常生活、仕事などの人間関係などに困難を感じるところ。
他にも『自分のことを客観視できない』ということから、当事者であろう方自身も誤解してしまう事があります。
- 物事がうまくいかないのは「○○のせいだっ!」
- 俺ばっかり注意されている。
上手くいかない原因を周りの人のせい(自分ではなく他に原因があると思う。)にしてしまう事があります。
これは『自分の事を客観視できない』という所と、『認知のゆがみ』からだと思われます。
状況を客観的に見て分析する事が苦手な人が多い。
上手くいかない理由を把握できずに誤解してしまったり、自分ではない何かに原因を決めつけてしまうことが多いようです。
目に見えることと、自分が経験したことは分かる
『気持ちのような目に見えないことを想像できない』という想像力の障害。
逆に言えば『目に見えることは分かる』ということだとも思えます。
あとは、『自分が経験したこと』に対しては理解してくれる時が多いです。
先日わたしは、『自分が経験した事に対しては理解してくれる』ということを、改めて感じる出来事がありました。
人がむせて苦しんでいる姿を「なんか面白い(笑)」と笑って見ている旦那ネスケ…。
これって、私がむせると毎回「くすくす(笑)」と笑っているんですよね。
(時には爆笑…。)
私は苦しんでいるのに笑っているネスケに対して、私は毎回ムカついている…。
そして、先日も私は食事中にむせました。
ネスケが『激しくむせる』という経験をした事から、いつもなら笑って見ているネスケなのに心配してくれた…。
『共感する事が苦手』ということは良く目にしますが、これも想像力の欠如という特性からきていると思います。
自分が経験したことは、比較的共感してくれることが多い
ネスケを見ていると、『相手がこう思う』というより、『自分がこう思う』が優先されているな~。と、身近で接している私は感じています。
自分が受けた言動というのは、自分自身のことなのでもちろん分かるということ。
ですが、『自分自身の言動によって相手がどういう気持ちになるか』ということに対しては、想像する事が困難という特性から分からないことが多いんです。
(分からないというか、頭に浮かばないというか何というか)
この部分が私が頻繁に思う、『自分の事を棚に上げて』や『ブーメラン刺さってるよ?』になります。
私の読んだ本には『定点観測者』という言葉が出てきました。
定点観測者とされる方は、相手の立場に立つことが苦手。
この部分が、人の気持ちや状況が分からないということになるようです。
心の移動が出来ずに1つの点からも物事をみる。
自分が周りの人に不快な思いをさせていることは分からないが、自分が不快にされていることは分かる。
この定点観測者は、特性が複合しているとも書いてありました。
※参考図書
マイルール(こだわり)も関係している
例えば、ASDの特性からの『マイルール(こだわりも)』を優先させるけど、そのことで相手が困っていたり不快に思っていたとしても本人は気づかない。
自分の中だけのルールやこだわりが『世の中の当たり前の事というか「普通」』とも思うくらいなので、それを破る人がいるとパニックを起こしたり(混乱する)、それが許せないという気持ちになるようです。
ネスケのやり方でわたしがやらない時って、どんな感じになるの?
なんかその通りにやってくれないと、上手く言えないけど気持ちが悪くてイライラしてくる。
『自分の意見を曲げない(融通が利かない)』とも取れますが、本人の気持ちとしてはこんな感じなのかもしれません。
さらに『良かれと思ているのに、なんで文句を言うんだっ!』と怒ることも珍しいことではない。
ネスケ子の為にと思ってやったのに、なんで文句を言うんだっ!
理不尽な文句を言うなっ!
え…。
気持ちは嬉しいけど、わたしは今困っているよ?
それで怒られても…。
それこそ理不尽だよ…。
物事に対しての見方
全体と1部分との関連を把握することに困難がある。
以前何かの記事に書きましたが、「森を見るのではなく、一本の木を見る」という部分も関係しているのでは?
全体と1部分との関係(関連)を把握することが苦手なので、一点だけをを見てしまう。
そうすると、全体の中(背景・状況の中)で自分がどの位置に(どのような状態か)いるかが分かりづらいということです。
優先順位が決められないというのは、この特性が関係しているようです。
全体の中での自分の状態が分からないことも、自分を客観視できないということに繋がるのでは?と、わたしが思っているだけです。
視野が狭いというのは、この全体を見る事が出来ずに一部分だけを見てしまうということ。
我が家の『客観視できない』エピソード
ネスケとの生活の中では、ほぼ毎日のように『客観視できない』という出来事がある。
なので、全ては書くことができません(笑)
この2つのことを説明すると
いつも私がネスケに注意していることを(電気を消す・物を使ったら元に戻すなど)、わたしがしてしまう時もありますよ。
その時、まるで鬼の首を取ったかのように『お前だってしているじゃないかっ!』と、グチグチ言われる時があるんです。
毎日毎日やっている人に言われたくないんだけど。
わたしもやってしまう時はあるけどさ、月に1回あるかないかだよ?
ここは『白黒思考』が出てきます。
1回でもしていたら『している』なんです。
「時々」ではなく、「している」です。
ネスケの場合で言うならば、ネスケ自身が言われていることは強く印象に残るので、自分が毎回しているということよりも「毎回自分は言われている。」ということなんですよね。
『毎回、自分が消し忘れている』ではなく、『毎回、文句を言われている。』です。
ネスケ父はネスケの「鏡」
最近のネスケは、自分を客観視する術を得ました。
それは、ネスケの父と接することです。
『ネスケ父とネスケは、本当に同じ特性を持っている。』
ネスケ父と会う度に毎回そう思います。
そんなネスケ父とネスケが接する度に「俺もこうなんだろうな…。」と感じるそうです。
そして、そんな2人のやり取りを離れたところから見ている私は苦笑いです。
ネスケに聞かれた事に対して、私が答えたり意見を言う時がありますが…。
そんな時、ネスケが素直に聞いてくれる事は少なかったです。
(最近は、聞いてくれる事が増えた。)
とりあえず、『あーだこーだ。』言われます。
聞かれたから答えただけの私はイラッとします。
わたしの答え方も考えたら良くないのかもしれませんが、やっぱりイラッとすると思う。
「あ、そうか。」でいいじゃないか!と思うのですが…。
「でも。」とか「だけど。」とか、止まりません…。
意見などを言われると、ネスケからすると『自分を否定された』と捉えてしまいます。
(意見=否定)
その対策としては、私が意見を言う前に「今から私が話すことは、ネスケを否定するという事じゃないからね?」と言うようにしています。
忘れる事もありますが、この一言添えるということを続けてきました。
現在のネスケは私が一言添えることを忘れても、『否定された』と思うことが少なくなってきた気がします。
ある日、ネスケ父が我が家に手伝いに来てくれました。
その時にネスケが「気をつけてね。」という感じでネスケ父に言ったんです。
言われたネスケ父は、どうなったか?というと…。
はい、自分の言動を客観的に見る事ができました。
ネスケ父の言動が、まるっきりネスケでした。
ネスケ父に言った後、「あっ!これかっ!こう言う事か!」と言っていました(笑)
私は「漫画かよっ!」と突っ込みたくなるほど、オチがありました(笑)
ネスケは、ネスケ父と接する度に自分の言動を客観視する事ができるようです。
それは、ネスケが言うには「良くも悪くも、俺の鏡。」らしいです。
他の人のことは見ることができる
ネスケと出かけている時に、ネスケは何気に周りの人を良く見ています。
隣でネスケを観察していると、挙動不審な人に見える時もあるほどに落ち着きなくキョロキョロとしている時もあります。
人の服装のことを言えるような服装をしていないネスケ。
服に興味がないネスケですが、それも『他人の目から見た自分』を想像することが出来ないということが関係しているようです。
他の人の服装はもちろん見ることができる。
人の服装のことを、あーだこーだ言います。
(私の服装も言われる。)
服装に無関心についての記事も併せてご覧ください。
『自分のことを棚にあげて』あるある
ADHDの特性も持っているネスケは、使った物を元に戻す、開けたら閉める、点けたら消す、などを気をつけてはいても出来ない。
(毎日のあるある)
自分はいつも閉めないのに、私が閉め忘れた時などはめちゃめちゃ言います。
自分の事を棚に上げて、めちゃめちゃ言います。
自分のことを客観視できない旦那【まとめ】
自分のことを客観視できないという特性が原因となり、喧嘩になることはとても多い。
重複していることもありますが、以上のようなことが原因(理由)となります。
ネスケの場合は、ネスケ父と接することで自分の言動を客観視することができるようになりました。
ネスケ父の方が色々な意味で拗らせているので、余計にネスケが感じる事が出来るようです。
ですが、以前のネスケは父と接していても気づくことはありませんでした。
なぜ最近のネスケが気づくようになったのか?
自分自身の事を書き出すようになって、自分の言動を見直すきっかけとなったようです。
発達障害の本に『日記を書く』というアドバイスが載っているのを多く見ます。
本を読んだ時に、ネスケに「書いてみたら?」なんて言っていましたが、書くことはなかったです(笑)
ネスケが怒っている時、わたしに対してのネスケの発言は
「え?ネスケ自分に言っている?」と思うくらいに、ネスケが発した瞬間にネスケにブーメランが刺さっているんですよね。
「それってネスケの事だよね?」と言うと、さらに怒らせてしまうんですが💦
ですが毎回思った時に、「それはネスケのことだよね?」と毎回指摘していました。
その指摘を振り返ることも、ネスケが気づくきっかけになったのかもしれません。
ネスケが書き出すようになったのは、「カウンセリングに行く時に聞きたい事や相談したい事をその場になると忘れてしまうから書いておく。」と、ネスケ自身が書き始めました。
ネスケは『発達障害の特性』や『認知のゆがみ』などから、誤った受け取り方をしてしまうことが多い。
大体はネガティブに受け取ってしまうのですが、それも自分のことを客観視することが出来たら解決されることが多いような事なのかもしれません。
他にもわたしが日々書いているアメブロでの喧嘩記事を読んでいたことが、客観視できるきっかけになりました。
最初の頃は「あれはネスケ子の言い分しか書いていない。」という意見を言っていたネスケ。
喧嘩記事を感情のままわたし目線で書いた後に、ネスケの言い分を交えて『解説記事』を書くようになってから、ネスケは自分の言動を見直すようになりました。
書きだしたことを時間がある時や、気になった時に読み返す。
ネスケが自分のこと、を間接的にでも客観視することができる方法となっています。
そこから『気づき』があり、以前のネスケとは変わってきた理由です。
私がいくら言っても行動する事はありませんでした。
良く目にする『相手を変える事はできないけれど、自分を変える事は出来る。』というものを、改めて実感する事が出来ました。
私自身もネスケに対して、意見や注意などしてきました。
ですが、いくら「やめて欲しい。」、「変わって欲しい。」と言っても変わる事はなかった。
わたしのネスケへの対応が変わったことも、ネスケが変わった理由の1つ
ネスケに押し付けることをしなくなり、良い意味での諦めをして『わたしが言わなければネスケが困るだけ。』と、割り切って対応するようになった。
対応が変わったことにより、ネスケが変わってきた。
ネスケのルールを押し付けられることが嫌だけど、私もして欲しいことなどをネスケに押し付けていたのかもしれないと、思ったわけです。
ネスケの普通がわたしの普通ではないように、わたしの普通もネスケの普通ではないということを、わたし自身が理解したのかもしれません。
このムカつきは、ネスケが発達障害でなかったら感じないムカつきだと思いますが、発達障害のネスケではなく、それがネスケだと思うようになりました。
私が感じたことや、思っていること、調べたことなどが、誰かの参考になればと思います。